2017年01月11日

『親切な進化生物学者』オレン・ハーマン

奇数章は利他行動や群淘汰を、偶数章はジョージ・プライスの人生を追う。

ダーウィンは、アリの社会性の謎に対して「誰が利益を得るのか」という視点から、その答えを共同体だと考え、人間の社会的本能は共同体の幸福のために獲得されたものであると書いた(人間の由来)。ピョートル・クロポトキン(1842〜1921)は、ポーランドで起こった反乱が反動を受けて改革とその精神が忘れられたことに幻滅すると、満州の地理学的調査に向かい、様々な動物の相互扶助と協力を見出して、「自然淘汰はたえず競合を避けるのにぴったり適した方法を探し出す」と説いた(相互扶助論)。

ダーウィンの第3子レナードが指導教官になったロナルド・エイルマー・フィッシャー(1890〜1962)は、一つの突然変異遺伝子が生き残る正確な確立を示し、淘汰に対する優位さがごくわずかな突然変異も集団に広がることを明らかにした(自然淘汰の遺伝学的理論)。シューアル・ライト(1889〜1988)は、利他主義は集団の一部が隔離された状態で進化し得るとする群淘汰を考えた。

等脚類の生態を研究したウォーダー・クライド・アリー(1885〜1955)は、環境に反応して個体同士が寛容になることを学習し、誘因力を獲得し、同調して行動するようになり、最終的に協力し合うようになるといった移行が生物に普遍的に見られることを発見した。協力し合う力は生物学的により重要であると結論づけ、順位制と優劣関係は社会性脊椎動物だけにみられる生命の樹のちっぽけな枝にすぎないと考えた。アルフレッド・エマーソン(1896〜1976)は、自然淘汰が個体だけでなく集団にも働くことを学び、個体にとっては不利だが集団にとって有利な進化が起こると考えた。

ウィン=エドワーズ(1906〜1997)は、フルマカモメが3〜4割しか繁殖行動をしないことを観察して、群れの大きさを測り、資源の枯渇を防ぐために数を調節していると考えた(群選択)。ウィリアム・ドナルド・ハミルトン(1936〜2000)は、血縁度(r)に応じた利益(B)が費用(C)よりも大きければ(rB>C)、利他的行動の原因となる遺伝子は進化できることを示した(包括適応度)。ジョン・メイナード=スミス(1920〜2004)は、ハミルトンの論文を査読して自ら論文を発表し、血縁淘汰は可能で、群淘汰は不可能であると論じた。ジョージ・クリストファー・ウィリアムズ(1926〜2010)は、文献を徹底的に調査して、性比が環境の変動によらず一定であることを根拠にして、群淘汰を否定した。

ジョージ・プライス(1922〜1975)は、血縁淘汰で自然界のすべての事例を説明できるとは思わず、協力的な関係が重要な種では、非協力な行動が報復を受けることが鍵となるゲームの論理だけで、協力を確保するに十分であると考えた。形質の異なるグループから、そのコピーを異なる比率で取り出すことによって第2のグループをつくると、その平均は形質とコピーの数を平均のコピー数で割った共分散で求められる。これは、社会の環境によって集合的な利他行動が進化できることを示す。淘汰がグループ内よりもグループ間でより強く働いている場合は、利他行動が進化し得る。共分散に、形質が忠実に伝えられる度合いとしての伝達バイアスを加えることによって、淘汰が個体と生殖細胞あるいは個体と群という2つのレベルで同時に作用することを示した。ハミルトンは、フィッシャーの1対1の性比から逸脱する群淘汰の完璧な一例を示した。社会的順位制をもつチンパンジーとゴリラは、交尾をめぐるオスどうしの競争が見られない。

メイナード=スミスは、ジョージの論文に基づいて、ゲーム理論と進化生物学から進化的に安定な戦略(ESS)の概念を生み、その論文はジョージとの共著として発表された。2人は、前の相手の行動に対して自らが行動する確率を変える5つの戦略を対戦させるコンピューターシミュレーションを行い、報復派だけがESSで、探り=報復派が僅差の次点という結果を得た。ただし、重傷を負う確率を大幅に変更すると、タカ派が優位になる。ロバート・トリヴァース(1943〜)は、群淘汰と個体淘汰について思案をめぐらし、自己犠牲は善行がいつの日かお返しがもらえる確率がそこそこ高ければ、自己の利益に役立つことを理解し、利他行動が非血縁者間でも進化すると考え、互恵的利他行動の理論と呼んだ。

ジョージとメイナード=スミスの論文について、J.S.ゲイルとL.J.エヴァンスは、ハト派が報復派の中で残り続けるため、タカ派といじめ屋の混合がESSとなることを示した。リチャード・アクセルロッドとハミルトンは、絶えず裏切る戦略とともに、やられたらやり返す戦略がナッシュ均衡であることを数学的に証明し、協力が不釣り合いなほどの利益を得られると書いた。リチャード・ドーキンスが1976年に発表した「利己的な遺伝子」によって、遺伝子以外の進化は否定されつつあったが、1980年代になるとデイヴィッド・スローン・ウィルソンなどの理論家は、適応度の違いが存在するレベルに淘汰が作用すると考えはじめた。1981年には、ハミルトンが雌に偏った性比に関する論文について、R.K.コーウェルは群淘汰が働いていることを示した。自然界では、非血縁者間の純粋な互恵的利他行動はまれであることが立証されている。誰もが人類は特別だと考えるが、ハミルトンは、それは群淘汰が人類において中心的な役割を果たしているためであると考える。プライスの方程式は、利他行動だけでなく、生物学の多岐にわたる分野で有用であることが立証されている。

500ページもあるから貸出期間が1週間長い年末年始に借りたが、内容も濃く、難儀した。これまでに読んだ本の中で、これほど難儀した本を思い出せない。1,3,5,7,9,11,13章を再読して、やっと概ね理解できたと思える程度だが、注釈を含めれば、このテーマに関する歴史的経緯の情報量はかなり多い。

親切な進化生物学者―― ジョージ・プライスと利他行動の対価親切な進化生物学者―― ジョージ・プライスと利他行動の対価
オレン・ハーマン / みすず書房 (2011-12-21)
タグ:生物学 人物
2016年12月26日

『人工知能は人間を超えるか』松尾豊

時代毎の人工知能の開発の歴史を追った上で、現在の状況を説明しているのがわかりやすい。ディープラーニングと機械学習との違いもよくわかった。

1960年代の第1次ブームでは、推論と探索によって問題を解く研究が進んだ。チェスや将棋などのゲームでは、盤面を評価するスコアをつくり、そのスコアがよくなる次の差し手を探索した。こちらは点数を最大に、相手はこちらの点数を最小にする手を指すミニマックス法を用いる。局面が最終段階に入ったら、終局するまでランダムに手を指し続けて、その勝率で盤面を評価するモンテカルロ法を用いる。トイ・プロブレムは解けても、複雑な現実の問題は解けないことが明らかになり、1970年代には冬の時代を迎えた。

1980年代の第2次ブームでは、大量の知識を入力することによって現実の問題を解く開発が行われた。知識の概念はノードをリンクで結ぶことによるネットワークで表現したが、それをコンピューターで見つけるライトウェイト・オントロジーによってデータマイニングが進んだ(セマンティックウェブやLinked Open Dataとして研究が展開されている)。IBMが開発したワトソンも、ウィキペディを基にライトウェイト・オントロジーを生成して解答に使っている。

1998年頃から、ウェブページのテキストを扱う自然言語処理と機械学習の研究が発展した。学習とは分ける作業で、判断をイエス・ノーで答えるもの。教師あり学習では、正しい出力を与えて、その分け方を学習させる。分ける方法のひとつであるニューラルネットワークでは、シナプスの結合強度にあたる重みづけを、全体の誤差が小さくなる方向に調整する誤差逆伝播によって精度を上げていく。

機械学習の入力に用いる変数である特徴量に何を選ぶかで予測精度が大きく変化するため、研究機関はその設計にしのぎを削ってきたが、ディープラーニングによってコンピューターが特徴量を作り出すことができるようになった。手書きの文字画像のような入力と同じものを出力にも置き、ニューラルネットワークを用いてできるだけ近くなる重み付けと隠れ層を生成する(自己符号化器。主成分分析と同じ)。生成された隠れ層をさらに入力と出力に置いて次の隠れ層を生成することを繰り返すことにより、高次の特徴量が生成される。

著者は、これまでに研究されてきた人工知能のトピックが、今後ディープラーニングの技術を用いて洗い直されると予測する。時間を扱うことができるようになれば、動画や音声を処理することができる。物を動かすなどのコンピューター自らの動作とその結果を学習することができれば、動作の概念や行動した結果の抽象化が進む。日常の概念を獲得できれば、それに言葉を結びつけることができる。言葉を理解できるようになれば、ウェブや本を通して人間の知識を吸収することになるという。

人工知能は人間を超えるか ディープラーニングの先にあるもの人工知能は人間を超えるか ディープラーニングの先にあるもの
松尾 豊 / KADOKAWA/中経出版 (2015-03-11)
タグ:人工知能
2016年12月06日

『文科系のための暦読本』上田雄

グレゴリオ暦に至る歴史、太陰暦、二十四節気と暦に関する疑問をほとんどカバーしている。とても充実した内容だった。タイトルに「文科系のための」と付いているのがもったいないと思うほど。

古代ローマのロムルス暦は、春を1年の始まりとした10か月だけで、残りは冬ごもりの時期とした。1〜4月はローマの神の名をとり、5月以降は数詞を月名とした。

BC710年に改訂されたヌマ暦で11月と12月が加えられ、神の名が付けられた。ヌマ暦はBC153年に、11月を1月に変更し、冬至を年初とする改革がなされた。数詞の月名は変えられなかったため、7月以降は2つずれることになった。12月だった2月は1年のずれを調節する生産のつきだったため、他の月と日数が異なり、閏日を加える月として残った。

ユリウス・カエサルはエジプトの太陽暦(30日12か月と5日)を知り、1年を365日、奇数月を31日、偶数月を30日、2月を29日とし、4年ごとの閏年に1日加えるユリウス暦をBC45年に導入した。その後、カエサルの誕生月の7月はJuliusに、8月はAugustusに変更して31日とし、9月以降の日数を逆にして2月を28日にした。

325年にニカエア宗教会議において春分を3月21日と定められた。実際の1太陽年は365.24219879日のため、ユリウス暦のずれは4年に0.03120484日ずつたまることになり、1200年余りで10日となった。1582年にローマ教皇グレゴリュウス13世は、西暦年が100の倍数で400の倍数でない年は平年とし、閏年を400年間に3回省いて97回と改革した。グレゴリオ暦の誤差は、400年間で0.120484日、3320年で1日先行する。グレゴリオ暦はプロテスタントの国々でも18世紀半ばまでに導入され、日本でも明治5(1872)年に採用されたが、ロシアではロシア革命の1917年に、東ローマの文化圏では1923年にやっと切り替えられた。

月の満ち欠けに基づく太陰暦では、29日と30日の月を交互に配すると12か月で354日となる。イスラム暦は、マホメットが月の数は12であると宣言したことが閏月を設けてはならないと解釈されたため、純粋な太陰暦を用いている。1年は約11日少なく、季節は33年で一巡する。太陰暦を太陽の周期に合わせる太陰太陽暦は、19年に7回閏月を入れる(中国で章法、ギリシャでメトン法と呼ぶ)。

月の満ち欠けの周期は29.530589日なので、29日と30日の月を交互に配すると約32か月で1日のずれが生じる。古代中国では月の大小を16回繰り返した後、大の月を2回続ける連大を入れていた(平朔法)。8世紀以降は、実際の月の動きに合わせて月の大小を決めた(定朔法)。

二十四節気は、正確な季節を把握するために太陽の軌道を15度ごとに設定したもの。12ずつの節気と中気があり、中気(春分、夏至、秋分、冬至を含む)の日付を含む月をその名の月とし、含まない月を閏月とした。

日本では、聖徳太子の頃に百済の僧によって中国暦が伝えられた。なお、干支の一巡60年を21回繰り返す1260年を周期として王朝が変わるとされたことから、斑鳩宮を営んだ辛酉の年から1260年遡った紀元前660年を神武紀元としたと推測される。862年に導入された宣明暦は1683年まで使われた。暦は加茂家が家職として独占し、陰陽道(天文)を家職とした安倍家が支配下においた。1684年には安井算哲(渋川春海)が京都を原点として制作した初の国産暦である貞観暦が採用され、1844年には西洋の天文暦学を採り入れた天保暦が採用された。桃の節句、七夕などの伝統的な行事が季節と合っていないのは、現行暦への移行の際、明治5年12月2日の翌日を明治6年1月1日としたにもかかわらず、旧暦上の月日をそのままにしたため。盂蘭盆は7月15日、中秋の名月は8月15日だった。

文科系のための暦(こよみ)読本文科系のための暦(こよみ)読本
上田 雄 / 彩流社 (2009-02-19)