2016年12月06日

『文科系のための暦読本』上田雄

グレゴリオ暦に至る歴史、太陰暦、二十四節気と暦に関する疑問をほとんどカバーしている。とても充実した内容だった。タイトルに「文科系のための」と付いているのがもったいないと思うほど。

古代ローマのロムルス暦は、春を1年の始まりとした10か月だけで、残りは冬ごもりの時期とした。1〜4月はローマの神の名をとり、5月以降は数詞を月名とした。

BC710年に改訂されたヌマ暦で11月と12月が加えられ、神の名が付けられた。ヌマ暦はBC153年に、11月を1月に変更し、冬至を年初とする改革がなされた。数詞の月名は変えられなかったため、7月以降は2つずれることになった。12月だった2月は1年のずれを調節する生産のつきだったため、他の月と日数が異なり、閏日を加える月として残った。

ユリウス・カエサルはエジプトの太陽暦(30日12か月と5日)を知り、1年を365日、奇数月を31日、偶数月を30日、2月を29日とし、4年ごとの閏年に1日加えるユリウス暦をBC45年に導入した。その後、カエサルの誕生月の7月はJuliusに、8月はAugustusに変更して31日とし、9月以降の日数を逆にして2月を28日にした。

325年にニカエア宗教会議において春分を3月21日と定められた。実際の1太陽年は365.24219879日のため、ユリウス暦のずれは4年に0.03120484日ずつたまることになり、1200年余りで10日となった。1582年にローマ教皇グレゴリュウス13世は、西暦年が100の倍数で400の倍数でない年は平年とし、閏年を400年間に3回省いて97回と改革した。グレゴリオ暦の誤差は、400年間で0.120484日、3320年で1日先行する。グレゴリオ暦はプロテスタントの国々でも18世紀半ばまでに導入され、日本でも明治5(1872)年に採用されたが、ロシアではロシア革命の1917年に、東ローマの文化圏では1923年にやっと切り替えられた。

月の満ち欠けに基づく太陰暦では、29日と30日の月を交互に配すると12か月で354日となる。イスラム暦は、マホメットが月の数は12であると宣言したことが閏月を設けてはならないと解釈されたため、純粋な太陰暦を用いている。1年は約11日少なく、季節は33年で一巡する。太陰暦を太陽の周期に合わせる太陰太陽暦は、19年に7回閏月を入れる(中国で章法、ギリシャでメトン法と呼ぶ)。

月の満ち欠けの周期は29.530589日なので、29日と30日の月を交互に配すると約32か月で1日のずれが生じる。古代中国では月の大小を16回繰り返した後、大の月を2回続ける連大を入れていた(平朔法)。8世紀以降は、実際の月の動きに合わせて月の大小を決めた(定朔法)。

二十四節気は、正確な季節を把握するために太陽の軌道を15度ごとに設定したもの。12ずつの節気と中気があり、中気(春分、夏至、秋分、冬至を含む)の日付を含む月をその名の月とし、含まない月を閏月とした。

日本では、聖徳太子の頃に百済の僧によって中国暦が伝えられた。なお、干支の一巡60年を21回繰り返す1260年を周期として王朝が変わるとされたことから、斑鳩宮を営んだ辛酉の年から1260年遡った紀元前660年を神武紀元としたと推測される。862年に導入された宣明暦は1683年まで使われた。暦は加茂家が家職として独占し、陰陽道(天文)を家職とした安倍家が支配下においた。1684年には安井算哲(渋川春海)が京都を原点として制作した初の国産暦である貞観暦が採用され、1844年には西洋の天文暦学を採り入れた天保暦が採用された。桃の節句、七夕などの伝統的な行事が季節と合っていないのは、現行暦への移行の際、明治5年12月2日の翌日を明治6年1月1日としたにもかかわらず、旧暦上の月日をそのままにしたため。盂蘭盆は7月15日、中秋の名月は8月15日だった。

文科系のための暦(こよみ)読本文科系のための暦(こよみ)読本
上田 雄 / 彩流社 (2009-02-19)
2016年11月26日

『宗教を生みだす本能』ニコラス・ウェイド

読み終えるのに時間はかかったが、内容は意外と単純だった。宗教は社会をルールに従わせるためと、戦争のために結束させるために発達したと説明する。

ドゥ・ヴァールは道徳について、共通の価値に基づいて争いを処理する集団全体のシステムから生まれる善悪についての感覚と定義する。道徳はサルや類人猿にも見られる(対立後の和解、共感、社会ルールの学習、互恵の観念)。

人間が言語を獲得すると、他人が何を知り、何をしたいかを推測する心を発達させた。自分の行動を集団に示して評判を高めることによって、道徳的推論が進化した。心を発達させた集団は、生き残りをかけて争う中で、個人に社会の利益を重視させるようになった。

著者は宗教を、感情に働きかけて人々を結束させる信念と実践のシステムと定義し、超自然的存在の懲罰を怖れる人々は自己の利益より全体の利益を重んじる役割を果たすものであると説明する。狩猟採集社会では、通過儀礼と集団での舞踏を通して、すべての人が神のルールに従うことを誓うことにより、集団として存続するための知恵を得て、警察などの統治機関なしに社会を結束させた。超自然的な懲罰を怖れた者たちが、最強で永続力を持つ社会を築いた。現在の狩猟採集民の宗教は、日常生活の大部分を占め、精力的に歌い、踊り、強い感情を引き起こす夜通しの儀礼をおこない、信仰より儀礼を重んじる共通点がある。サミュエル・ボウルズは、ジョージ・プライスが開発した方程式を用いて、集団の協力関係を生み出す利他主義と集団間の戦闘が共進化したことを示している(『親切な進化生物学者』オレン・ハーマン)。著者は、舞踏、音楽、儀礼に基づく原宗教、言語、超自然的存在への共通の信仰に基づく宗教の順で発生したと推論する。

定住社会では、聖職者階級が人々と神の間に立つようになり、祭司の王が支配する古代国家が生まれた。統治機関があったとしても強制力を持たなかった時期に、宗教儀礼は人口調整や資源管理などの社会的、生態学的な規制面で重要な役割を果たしただろう。宗教が聖職者のものとなり、超自然界のメッセージを自由に解釈できるようになると、極端な解釈も横行した。

BC722年にイスラエル王国がアッシリアに滅ぼされた後、BC640〜BC630年の間にアッシリアが撤退すると、ユダ王国はイスラエル王国を取り戻して併合するために、イスラエル人がエジプトを脱出してカナンに王国を築いた物語を提示し、ヤハウェをエルサレムの信仰の中心にした聖書を用いて共同体の結束を図った。ヨシュアはBC610年に戦死し、エルサレムはBC597年にバビロニアに占領され、多くの住民がバビロンに連行されたが、信者を共通の目的に向けて束ねる聖典を生み出した点では成功した。

キリスト教は、ローマ帝国内の都市に住みつき、ギリシャ語を話すヘレニズム化したユダヤ人の間で普及した。公共福祉が全くなく、大災害が頻発したローマ帝国の中では、進んで助け合うキリスト教徒の姿は際立ち、女の子を殺すことや堕胎、同性愛は禁じられたため、教徒の数は増えていった。

戦争で宗教が大きな役割を果たしたものは、73の大きな戦争のうち3つしかない(7〜8世紀のアラブの大征服、11〜13世紀の十字軍、16世紀のプロテスタントの宗教改革)。宗教は戦争の目的ではなく、国民の支持を得るためにスローガンとして用いられているに過ぎない。戦争に脅かされることがなく、北欧のような充実した福祉制度のある国で育つと、宗教活動に関わる必要性を感じなくなる。

宗教の存在理由は社会へのルールの導入と結束であるとする説明は、理解はできる一方で、それだけなのかと頭が整理できないのも正直なところ。アメリカ人向けなのか、三大一神教に関する記述がメインなのも物足りない。ドーキンスの「神は妄想である」、パスカル・ボイヤー「神はなぜいるのか?」にも、宗教の起源や道徳の根源に触れているようなので、確認してみよう。

宗教を生みだす本能 ―進化論からみたヒトと信仰宗教を生みだす本能 ―進化論からみたヒトと信仰
ニコラス・ウェイド / エヌティティ出版 (2011-04-22)
タグ:人類学 宗教
2016年10月22日

『日本文明と近代西洋』川勝平太 NHKブックス

幕末の開国当時、国際的に取引されていた主要商品は、すべて国内で自給できていたことが、自由貿易でも日本がアジア中枢部との競争に勝つことができたという内容。銀の流出を止めるために商品の国産化を推進して成功し、鎖国をしていたにも関わらず国内の経済は活性だったことがわかる。

中世末から近世初期にかけて、日本とヨーロッパは多くの物産を、それ以前からアラビアから中国まで広がっていたアジア貿易圏から輸入した。ヨーロッパが提供できたのは、武器とラテン・アメリカから掠奪した金銀しかなく、日本も戦国時代に進んだ鉱山開発によって保有していた金銀銅を輸出した。

ヨーロッパ人が東インドに到着する以前、インド洋圏ではインド人、インドネシア人が主体となって、香料諸島の胡椒・香辛料、ヨーロッパの銀、インドの木綿を交換する三角貿易が行われていた。ポルトガル人はこの中継貿易を武力で奪い取り、西方の拠点だった中東→ヴェニスをリスボン→アントワープに移した。17世紀に貿易の覇権はオランダとイギリスに移ったが、香料諸島の利権をオランダに奪われたイギリスはインドに退いたことから、インド木綿がヨーロッパに輸出されるようになった。1660年代後半から約百年間、アジアからの輸入の3分の2をインド木綿を中心とする織物が占めるようになった。インド綿布は、イギリス国内の羊毛・絹工業を危機に陥れたが、1700年にキャラコ輸入禁止法が発布されると、イギリスの綿工業は西インド諸島のプランテーションから供給された原綿によって発展した。

鎌倉期に一度途絶えた日本への綿の伝来は15世紀末から16世紀初頭に再伝来し、綿作は日本一円に広がった。国産綿布は厚手のものだったため、冬季の生活に取り入れられた。綿作は17世紀末から18世紀初期に多肥・労働集約型農法の典型として畿内に集中した後、近世後半には瀬戸内地域が台頭して江戸経済の最高段階をもたらした。

開国後の西洋列強の販売品目の中心は木綿と砂糖で、日本からの購入品は生糸と茶だった。輸入の中心はイギリス製品だった。イギリスは、アメリカのプランテーションで栽培した綿花をイギリスで製品に仕上げて世界に販売していた。茶は19世紀半ばまでは中国、それ以降はインドとセイロンのプランテーションで栽培されていた。生糸は、フランスやイタリア、アメリカの絹織物業の原料として中国から輸入されていた。これらは、日本が近代世界システムに参入する前から国際商品として取引されていたものだったが、いずれも19世紀初めまでに国産化による輸入代替化が完成していた。日本は保護関税をもうける権利を奪われており、イギリスとは自由貿易で相対したことは、商品の価格差がものをいう競争条件が整っていたことを意味する。

木綿は日本では冬にも着用されたが、ヨーロッパでは夏用で、冬には毛織物を用いた。幕末に輸入された木綿は薄地のため、日本の木綿の代用にはならず、価格競争していなかった。19世紀半ばにいち早く紡績機械を導入して太糸の生産力が上昇したインドからの輸入は、1890年以降に急増して在来の手紡績業が打撃を被ったが、明治30年前後に日本の紡績業が機械化すると、インドに比べて労働力の質が高い日本がその競争に勝った。この結果、かつて中国・朝鮮から日本への木綿の流れは、日本から中国・インドへと逆転した。

サトウキビは、インドより中国、台湾、琉球、日本へと伝播した。1624年にオランダが台湾を領有してからサトウキビ生産を奨励し、鄭成功が占拠後はさらに増産されて、主に日本に輸出された。17世紀の日本の砂糖輸入量はイギリスよりも多かった。吉宗の時代にサトウキビの国産化が奨励され、讃岐・阿波・薩摩をはじめとして各地に砂糖生産が発展し、1830年代には国内糖で自給の域に達した。開国後はインドネシア原産の砂糖が中国や台湾から流入して自給率は2割に減少したが、日清戦争の勝利によって台湾を占有すると、サトウキビの品種改良を行い、収穫高は30年で16倍になり、世界各地に輸出されるようになった。

イギリスと日本は生産革命によってアジア中枢部への貴金属の流出の危機から脱却し、最初の工業国となった。

日本文明と近代西洋―「鎖国」再考日本文明と近代西洋―「鎖国」再考
川勝 平太 / 日本放送出版協会 (1991-06)