2016年04月30日

「渋沢家三代」佐野眞一 文春新書

資本主義の父と民俗学のパトロンの生涯をまとめて読めるのはお手軽と思ったが、あとがきにも書かれている通り、敬三の民俗学へのパトロネージュについてはほとんど触れられておらず、『旅する巨人』を読めとのこと。そりゃそうだ、とは思ったが、渋沢家の生い立ちから没落への歴史を学ぶことができたのはよかった。

栄一は1940年に血洗島の中ノ家に生まれた。現深谷市のこの地は中山道と利根川にも近い交通の要衝で、家はそのメリットを生かした藍玉生産で富をなした。藍の栽培に必要な干鰯は、九十九里から利根川で運ばれた。栄一も14歳になると、単身で藍葉の仕入れに出ている。21歳で江戸に遊学に出て、学問や剣術の修行をする一方で、高崎城乗っ取りのクーデター計画を進めたが、激論の末、中止となる。その後京都に出て、温情を受けた一ツ橋家に仕官することになり、慶応2年に慶喜が将軍職に就くと、陸軍奉行支配調役となった。その1か月後、パリで開かれる万国博に派遣されることになった水戸の徳川昭武の庶務と会計役として随行し、遊学して資本主義を学ぶことになる。帰国後、静岡で謹慎中の慶喜を訪ね、そこで商法会所を開いて、明治政府が全国の諸藩に強制的に貸し付けていた新紙幣を基に、合本法を用いて殖産興業を図った。その1か月後には、新政府の大蔵省租税正に任命されて東京に赴くが、内閣と対立して明治6年に退任すると、在任中に自ら作成した国立銀行条例に基づいた第一国立銀行を創設した。

栄一は、古希を迎えた明治42年にほとんどの関係事業から身を引き、喜寿を迎えた大正5年には第一銀行の頭取をやめて、すべての企業との関係を断った。その後は社会事業に情熱を注ぐ一方、民間経済外交にも献身し、日露戦争後に変調をきたした日米関係を修復させようとしたが、満州事変が勃発した2か月後の昭和6年に91歳で生涯を閉じた。

敬三は明治29年に生まれた。中学時代から生物学に心を寄せ、大正10年に銀行員となったが、柳田国男らの影響を受けて民俗学に興味を持ち、屋敷車庫の屋根裏部屋にアチック・ミュージアムをつくっている。栄一の死に付き添った過労によって糖尿病を患い、療養のために過ごした伊豆の三津浜で、古老の家に伝わる400年の歴史と生活が記された古文書を見せられた。それを筆写して、3000ページに及ぶ「豆州内浦漁民資料」をまとめ、この頃から多くの民俗学者へのパトロネージュを始め、自らも土日曜を利用して52年間に480回もの旅を続けた。昭和12年には、アチック・ミュージアムに収蔵されていた民具を保谷に誕生した民族学博物館に移し、その40年後に開設された大阪の国立民族学博物館の母体となった。

敬三は昭和17年に日本銀行副総裁に任命され、昭和19年には日銀総裁に就任し、終戦後は幣原内閣の下で大蔵大臣に任ぜらた。自ら導入した財産税を納めるために三田の豪邸を物納し、GHQの財閥解体も後に「相当せず」との通告を受けたものの、それを放置して同族会社を解散した。渋沢家に代々仕えた杉本行雄は、敬三が「ニコニコしながら没落していけばいい」と口ぐせのように言っていたと伝えている。物納された渋沢邸は、40年余り6省庁の共同会議所として使用された後、道路拡張工事によって取り壊される際、杉本が払い下げてもらって三沢に移築している。

渋沢家三代渋沢家三代
佐野 眞一 / 文藝春秋 (1998-11)
タグ:人物
2015年12月13日

「チャールズ・ダーウィンの生涯」松永俊男

著者は生物学史の教授で、これ以前にダーウィンの本を3冊発行している。ひとりの人物の伝記としては内容が綿密で、周囲とのやり取りからはダーウィンの人柄も伝わってくる。

祖父エラズマスは医師として活躍し、3万ポンド以上の遺産を残したほか、王立協会の会員となって科学者としても活躍した。父ロバートも医師として働いたほか、それ以上の収入を資産運用から得ていた。残した遺産は20万ポンド以上だった。エマの祖父ジョサイア・ウェジウッドは陶器製造業で成功し、遺産は50万ポンドあった。

チャールズ・ダーウィンは、6人兄弟の5番目の子供として、1809年イングランド西部のシュルズベリーで生まれた。16歳でエジンバラ医学校に入学したが、医学には意欲を失い、地質学や無脊椎動物学に関心を向けた。卒業後はイングランド教会の牧師なることを目指してケンブリッジ大学に進んだが、自然史を教えるヘンズロー教授のもとに入り浸るようになった。ケンブリッジの最後の年には、フンボルトの「南アメリカ旅行記」やハーシェルの「自然哲学研究序論」を読んで関心を持ち、カナリア諸島に行く計画も立てていた。

ダーウィンは、ヘンズロー教授の紹介で、船長フィッツ=ロイの話し相手としてビーグル号に乗船することになり、1831年から1836年まで航海した。航海中にヘンズローに送った手紙から、地質学に関する部分を抜粋したものが地質学会で報告され、学会誌に掲載された。帰国後、航海中に記した日記を基にした「ビーグル号航海記」を1839年に刊行し、動物標本の研究をまとめて1838〜1842年に刊行された「ビーグル号航海の動物学」では、編集のほか序論や地質学概論などを執筆した。1842〜46年にはサンゴ礁や火山島などの三部作を発表するなど、地質学者として活躍した。

1839年、エマ・ウェジウッドと結婚し、42年にロンドンの東南20kmにあるダウンに転居し、規則正しい日常生活を送った。起床後、散歩をして朝食を済ませた後、8時から12時まで仕事をし、散歩をして昼食を取った後、新聞を読み、手紙を書き、15時から休みながらエマに小説を読んでもらった。16時半から1時間だけ仕事をして、再び休み、19時半に軽食を摂った後、エマとゲームを楽しんだりピアノを聞いたりして、22時に寝室に入った。チャールズは父から年間400ポンド、結婚後は年間500ポンドを支給されたほか、1万ポンドの債権による利息を得ていた。エマも父親から同様の支給を得ていた。1848年に父親が亡くなって遺産を相続すると、株や債券への投資によって、50年代に年間5000ポンド、60年代に6000ポンド、70年代に8000ポンドの収入を得ていた(当時の1ポンドは現在の1万円ほど)。研究の記録と同様の熱意で収支の詳細を記帳していた。

航海中の南アメリカの化石やガラパゴス諸島の種の強い印象を受けて、1837年から「転成ノートブック」を始めた。1842年に学説の概要を35ページの「ペンシル・スケッチ」としてまとめ、44年にはそれを拡充した「エセー」を「種の起源」と同じ構成で執筆したが、公表はしなかった。1846年からは、航海中に発見した新種の蔓脚類を報告することをきっかけに8年間にわたって蔓脚類を研究し、飼育栽培化だけでなく自然界にも変異があふれていることに気づき、自然選択による枝分かれ的進化によって全体像が理解できることに確信を持つことになった。1853年には、地質学と蔓脚類の研究が評価されて、王立協会のロイヤル・メダルを受賞した。

1854年に蔓脚類の研究を終えて、進化研究を再開した。1855年、ウォレスがサラワクで執筆した論文「新種の導入を支配する法則について」で生物の進化を示唆すると、ライエルはダーウィンに対して進化理論の概要を発表するよう勧め、ダーウィンは1856年に「自然選択」と名付けた大著を書き始めた。ウォーレスは1858年に、種が変化する仕組みとして分岐を提案したテルテナ論文を執筆し、それに自分の学説と同じものを読み取ったダーウィンは、友人に送った学説要旨と「エセー」の抜粋とともにウォーレスの論文を学会に送った。学会の発表後、「自然選択」の抄録を執筆し始め、1859年に「種の起源」初版が刊行された。当初はこれを非難する論調が目立ったが、生物進化の考えは急速に広まり、10年後にはイギリスの科学界では常識となった。

1860年には、「自然選択」の最初の2章を基にして「飼育栽培のもとでの変異」の執筆に着手し、68年に刊行された。その後、「人間の由来、および性選択」が1871年に、「人間と動物の感情の表現」が72年に刊行された。1975年以降は、植物学の著書を出版し、植物の他家受精が一般的であることを証明した。1880年からはミミズの研究に没頭し、「ミミズの作用による土壌と形成」が81年に刊行された。

1876年には「我が心と性格の発達についての思い出」を執筆したが、公開はしなかった。1882年、心臓病の悪化により死去後、三男フランシス編集の「チャールズ・ダーウィンの生涯と書簡」が1887年に出版されたが、自伝からは知人たちへの批判などは削除された。完全な自伝は、1958年に孫娘によって出版された。ダウンの自宅はしばらくの間女学校の校舎として貸し出されていたが、1927年に買い上げられて以前の状態に戻され、ダーウィン博物館として公開されるようになった。

チャールズ・ダーウィンの生涯 進化論を生んだジェントルマンの社会チャールズ・ダーウィンの生涯 進化論を生んだジェントルマンの社会
松永 俊男 / 朝日新聞出版 (2009-08-07)
タグ:人物 生物学
2015年07月02日

「岩崎弥太郎と三菱四代」河合敦 幻冬舎新書

岩崎弥太郎が三菱を創設するまでの経緯のほか、それを継いだ岩崎家3代が三菱を発展させていった経緯も学べるお得な本。明治時代の経営者が、利益よりも国家の発展を重視したことも描かれていて、日本の資本主義黎明期の様子も伝わってくる。

弥太郎は、1834年に藩士の身分を失った武士の家に生まれた。20歳のときに両親に反対されながらも江戸に遊学するが、1年も経たないうちに父親が暴行された知らせを受けて帰郷する。25歳で長崎の役職を得て様々な人脈を培うが、遊郭に通って公金を使い込んだため、5カ月で退職した。帰国後、荒地を開拓して新田をつくったり、綿栽培を行ったりして3年間で岩崎家を再建している。32歳の時、経営者としての能力を買われて長崎の貨殖局出張所(土佐商会)への勤務を命じられた。

弥太郎は長崎で坂本龍馬と出会う。龍馬は、脱藩して勝海舟の弟子となり、幕府の神戸海軍繰練所で経験を積んだ後、その同志とともに長崎で海運業や貿易代行業を行う亀山社中を創設していた。薩長同盟を仲介した龍馬を通じて両藩との親交を結びたい土佐藩は、経営難に陥っていた亀山社中を海援隊と改称して土佐商会の下においたため、弥太郎と龍馬は頻繁に交わるようになった。

慶応4年、開港した大阪に移るために土佐商会は閉鎖され、弥太郎も明治2年に大阪商会に配属した。明治3年に政府が藩の商業活動を禁止したため、大阪商会は九十九商会と名を変え、この頃から業務を貿易や商取引から海運業に移っていった。明治4年の廃藩置県後、弥太郎は一時新政府への出仕を目論んだが失敗し、職を失った士族たちを救う組合会社的なものとなった商会のトップに復帰すると、明治6年に三菱商会に改称した。

弥太郎は福沢諭吉の著書から影響を受けて、国家のために列強諸国に制圧されている海運事業の回復を目指し、慶応義塾の卒業生も大量に採用した。一方、政府は外国の汽船会社に対抗するため、三井、鴻池、島田、小野といった豪商にはかって、明治5年に日本国郵便蒸気船会社を創設させた。三菱商会は徹底的なサービス戦略で急成長し、明治7年の台湾出兵の際に政府からの兵と食糧の輸送の依頼を受けて、政府所有船も貸与された結果、日本郵便を抜き去った。明治8年、政府は、政府の保護のもとに民間会社を育成する海運政策を決議し、保護の対象を台湾出兵で実績をあげた三菱商会とした。明治10年の西南戦争では、会社の船をすべて稼働させて政府軍の兵糧輸送を担い、その恩賞として汽船を下賜され、三菱は全国の汽船の総トン数の70%以上を占めるまでになった。

明治11年に大久保利通が暗殺された後、大隈重信らの民権派と伊藤博文らの保守派が対立した。明治14年にクーデターによって薩長閥が実権を握ると、弥太郎が大隈を資金援助していたと思いこまれたため、三菱に与えられていた政府の保護が改定された。明治15年に立憲改進党が創設されると、その資金源とみられた三菱に対抗するため、政府は資金を援助して三井系や関西財界から資本を募って共同運輸会社を発足させた。弥太郎は共同運輸との死闘のさなかに、胃癌のため明治18年に死去した。

三菱を継いだ弥太郎の弟、弥之助は、政府の和解勧告を受けて共同運輸と合併させ、海運業からの完全撤退を決断した。合併して誕生した日本郵船は当初、社長をはじめ、役員や幹部の大半を共同運輸側が占めたが、三菱側の株主は岩崎家で独占していたため、年が経つと三菱から移った人材が主流を占めるようになっていった。明治19年、弥之助は三菱社を設立し、銅山開発、炭鉱、造船などの多角経営を進めた。明治20年に政府から長崎造船所を買い取ると、社員を英国に派遣して技術を学ばせ、日本一の技術力を持つようになった。また、陸軍関係の兵舎や練兵場を移動して空き地となった丸の内を買い取り、いくつものオフィスビルを建ててビジネスセンターを作り上げた。明治26年に商法が改正されて三菱合資会社としたのを機に、弥之助は弥太郎の長男、久弥に経営を譲って引退したが、明治29年には第4代日銀総裁に就任して、銀本位制から金本位制への転換を実現するなど、政界で活躍した。晩年には、社会的責任の観点から、静嘉堂文庫の設立や、日本女子大学や早稲田大学、東京慈恵会に資金援助している。

久弥は機械工業に造詣が深かったため、重工業分野を重視して造船と工業に資本を投下した。また、各部門に独立採算制を導入して経営の合理化を進めた。大正5年、久弥は経営が好調の時期に辞任して、後継には弥之助の嫡男、小弥太が選ばれた。小弥太は、巨大組織に成長した三菱を国利民福のための組織とするため、各事業を株式会社として独立させ、漸次株式を公開していった。

岩崎弥太郎と三菱四代岩崎弥太郎と三菱四代
河合 敦 / 幻冬舎 (2010-01)
タグ:人物 日本史