2016年07月22日

『旅する巨人』佐野眞一 文春文庫

先に読んだ「渋沢家三代」や宮本の自伝「民俗学の旅」と重複する部分も多かったが、2人と関係した研究者も登場し、当時の歴史やつながりも見えてくる。

宮本は明治40年に山口県の周防大島で生まれた。尋常小学校を卒業後は村に残って百姓をしていたが、叔父にすすめられて大阪に出ることになった。島を出る時に父親が伝えた十か条には、汽車に乗ったら窓から外を見ること、人の服装などに注意して見ること、新しく訪ねたところは高いところに登って見ること、時間があったら歩いてみることなど、その後の常一の活動の基盤となったと想像できる内容が盛り込まれている。大阪では、逓信講習所でモールス信号を学び、卒業後は高麗橋郵便局で働いたが、その間に市内を歩いて知った被差別部落に興味を持ち、足繁く通っている。仲間が相次いで肺結核で倒れるのを目にして郵便局を辞め、天王寺師範学校の二部に入学した。この間に大宅壮一に会って衝撃を受け、ひと月1万ページを目標にして乱読する生活を3年間続けることになる。師範学校の専攻科で地理学を修めた後、小学校の教師になった。昭和5年に結核を患い、故郷で絶対安静を1年あまり続けたが、その間に雑誌「旅と伝説」で募集された昔話をノート2冊分を送ったのをきっかけにして、後に柳田国男に面会することになる。大阪に戻ると、郷土史研究の仲間と同人誌を出したことをきっかけにして大阪民俗談話会が生まれ、そこに渋沢敬三も出席することになる。

渋沢敬三は明治29年に生まれた。はじめは動物学者を目指したが、その関心は玩具、民具へと移っていった。父親が廃嫡となった翌年、仙台二高の1年生で渋沢同族株式会社の初代社長に就任したが、同じ頃に柳田国男と出会っていた。東大卒業前には、三田の屋敷の屋根裏部屋にアチック・ミュージアムを始めている。卒業後は横浜正金銀行に入行したが、大正14年に柳田が岡正雄らと岡書院から「民族」を創刊した際には敬三がスポンサーになっている。同時期に、人類学、先史学、民族学などの若手研究者が人間の総合的な研究をすることを目的としたAPE会がつくられた。昭和11年には日本民族学会が設立され、事務局はアチック・ミュージアムに置かれたが、昭和12年に保谷に誕生した民族学博物館に移り、アチック・ミュージアムに収蔵されていた民具も移された。これは、その40年後に開設された大阪の国立民族学博物館の母体となった。アチック・ミュージアムは昭和17年に軍部から敵性用語に当たるという命令を受けて日本常民文化研究所と改称され、昭和56年には網野善彦が務める神奈川大学に移管された。

宮本は、昭和10年に東京のアチック・ミュージアムを訪ねると、渋沢から周防大島の海の生活誌をまとめることを求められ、翌年出版された。昭和14年、口内炎を患った際に見舞った森信三から満州に開学した建国大学行きをすすめられたが、渋沢からはその前にひと通り日本を見ておくことをすすめられ、小学校を辞めて上京した。その際、渋沢から「苦労ばかり多くて報いられることは少ないが、君はそれに耐えていける人だと思う」と言われて、民俗学の資料を発掘する作業を期待されている。宮本は、敬三からの体の管理方針を忠実に守りながら、17年2月までに19回、500日の旅を続けた。

敬三は、公職追放後の昭和26年にKDDの社長に就任したが、南方熊楠の業績を広く知らせるためのミナカタ・ソサエティをつくるなど、引き続き学問のパトロネージュの道を歩んだ。

宮本は、昭和22年に水産資料整備委員会の調査員として主に瀬戸内海を担当することになり、島々をたくさん歩くようになった。戦後すぐに敬三が提唱した八学会連合が昭和25年から調査を始め、宮本も対馬や佐渡に関わった。後に民俗学者となる谷川健一が現代日本の風土記を企画すると、宮本が実質的な編集執筆者となって、昭和32年に全7巻の「風土記日本」、昭和34年に「日本残酷物語」として出版された。昭和33年から未来社の雑誌「民話」で連載された「年寄りたち」は、後に「忘れられた日本人」としてまとめられた。昭和36年に「瀬戸内海の研究」で文学博士の学位を受け、渋沢の死後の昭和40年に武蔵野美術大学の教授になった。同時期に、近畿日本ツーリストが企画した「にっぽんのやど」に執筆を宮本に依頼したのをきっかけにして、同社が出資して開設された日本観光文化研究所にも関わるようになった。晩年の昭和54年には、「日本文化形成史」の講義を開始し、これを進化させた形の「海から見た日本」の構想をもって原稿を書き続けていたが、未完のまま生涯を閉じた。

宮本が開拓した歩く学問は、鶴見良行の「バナナと日本人」などを生み、中世民衆と社会史、西日本と東日本の文化の相違への着目は、網野善彦の「無形・公界・楽」などの骨格に影響を与えた。宮本の学問には、体系や方法論がないと言われ、アカデミズムの世界では評価が低いが、鹿野政直、安丸良夫、鶴見俊輔、水上勉、加藤秀俊、司馬遼太郎などが、宮本を高く評価した。

旅する巨人―宮本常一と渋沢敬三旅する巨人―宮本常一と渋沢敬三
佐野 眞一 / 文藝春秋 (2009-04-10)
タグ:人物
2016年04月30日

「渋沢家三代」佐野眞一 文春新書

資本主義の父と民俗学のパトロンの生涯をまとめて読めるのはお手軽と思ったが、あとがきにも書かれている通り、敬三の民俗学へのパトロネージュについてはほとんど触れられておらず、『旅する巨人』を読めとのこと。そりゃそうだ、とは思ったが、渋沢家の生い立ちから没落への歴史を学ぶことができたのはよかった。

栄一は1940年に血洗島の中ノ家に生まれた。現深谷市のこの地は中山道と利根川にも近い交通の要衝で、家はそのメリットを生かした藍玉生産で富をなした。藍の栽培に必要な干鰯は、九十九里から利根川で運ばれた。栄一も14歳になると、単身で藍葉の仕入れに出ている。21歳で江戸に遊学に出て、学問や剣術の修行をする一方で、高崎城乗っ取りのクーデター計画を進めたが、激論の末、中止となる。その後京都に出て、温情を受けた一ツ橋家に仕官することになり、慶応2年に慶喜が将軍職に就くと、陸軍奉行支配調役となった。その1か月後、パリで開かれる万国博に派遣されることになった水戸の徳川昭武の庶務と会計役として随行し、遊学して資本主義を学ぶことになる。帰国後、静岡で謹慎中の慶喜を訪ね、そこで商法会所を開いて、明治政府が全国の諸藩に強制的に貸し付けていた新紙幣を基に、合本法を用いて殖産興業を図った。その1か月後には、新政府の大蔵省租税正に任命されて東京に赴くが、内閣と対立して明治6年に退任すると、在任中に自ら作成した国立銀行条例に基づいた第一国立銀行を創設した。

栄一は、古希を迎えた明治42年にほとんどの関係事業から身を引き、喜寿を迎えた大正5年には第一銀行の頭取をやめて、すべての企業との関係を断った。その後は社会事業に情熱を注ぐ一方、民間経済外交にも献身し、日露戦争後に変調をきたした日米関係を修復させようとしたが、満州事変が勃発した2か月後の昭和6年に91歳で生涯を閉じた。

敬三は明治29年に生まれた。中学時代から生物学に心を寄せ、大正10年に銀行員となったが、柳田国男らの影響を受けて民俗学に興味を持ち、屋敷車庫の屋根裏部屋にアチック・ミュージアムをつくっている。栄一の死に付き添った過労によって糖尿病を患い、療養のために過ごした伊豆の三津浜で、古老の家に伝わる400年の歴史と生活が記された古文書を見せられた。それを筆写して、3000ページに及ぶ「豆州内浦漁民資料」をまとめ、この頃から多くの民俗学者へのパトロネージュを始め、自らも土日曜を利用して52年間に480回もの旅を続けた。昭和12年には、アチック・ミュージアムに収蔵されていた民具を保谷に誕生した民族学博物館に移し、その40年後に開設された大阪の国立民族学博物館の母体となった。

敬三は昭和17年に日本銀行副総裁に任命され、昭和19年には日銀総裁に就任し、終戦後は幣原内閣の下で大蔵大臣に任ぜらた。自ら導入した財産税を納めるために三田の豪邸を物納し、GHQの財閥解体も後に「相当せず」との通告を受けたものの、それを放置して同族会社を解散した。渋沢家に代々仕えた杉本行雄は、敬三が「ニコニコしながら没落していけばいい」と口ぐせのように言っていたと伝えている。物納された渋沢邸は、40年余り6省庁の共同会議所として使用された後、道路拡張工事によって取り壊される際、杉本が払い下げてもらって三沢に移築している。

渋沢家三代渋沢家三代
佐野 眞一 / 文藝春秋 (1998-11)
タグ:人物
2015年12月13日

「チャールズ・ダーウィンの生涯」松永俊男

著者は生物学史の教授で、これ以前にダーウィンの本を3冊発行している。ひとりの人物の伝記としては内容が綿密で、周囲とのやり取りからはダーウィンの人柄も伝わってくる。

祖父エラズマスは医師として活躍し、3万ポンド以上の遺産を残したほか、王立協会の会員となって科学者としても活躍した。父ロバートも医師として働いたほか、それ以上の収入を資産運用から得ていた。残した遺産は20万ポンド以上だった。エマの祖父ジョサイア・ウェジウッドは陶器製造業で成功し、遺産は50万ポンドあった。

チャールズ・ダーウィンは、6人兄弟の5番目の子供として、1809年イングランド西部のシュルズベリーで生まれた。16歳でエジンバラ医学校に入学したが、医学には意欲を失い、地質学や無脊椎動物学に関心を向けた。卒業後はイングランド教会の牧師なることを目指してケンブリッジ大学に進んだが、自然史を教えるヘンズロー教授のもとに入り浸るようになった。ケンブリッジの最後の年には、フンボルトの「南アメリカ旅行記」やハーシェルの「自然哲学研究序論」を読んで関心を持ち、カナリア諸島に行く計画も立てていた。

ダーウィンは、ヘンズロー教授の紹介で、船長フィッツ=ロイの話し相手としてビーグル号に乗船することになり、1831年から1836年まで航海した。航海中にヘンズローに送った手紙から、地質学に関する部分を抜粋したものが地質学会で報告され、学会誌に掲載された。帰国後、航海中に記した日記を基にした「ビーグル号航海記」を1839年に刊行し、動物標本の研究をまとめて1838〜1842年に刊行された「ビーグル号航海の動物学」では、編集のほか序論や地質学概論などを執筆した。1842〜46年にはサンゴ礁や火山島などの三部作を発表するなど、地質学者として活躍した。

1839年、エマ・ウェジウッドと結婚し、42年にロンドンの東南20kmにあるダウンに転居し、規則正しい日常生活を送った。起床後、散歩をして朝食を済ませた後、8時から12時まで仕事をし、散歩をして昼食を取った後、新聞を読み、手紙を書き、15時から休みながらエマに小説を読んでもらった。16時半から1時間だけ仕事をして、再び休み、19時半に軽食を摂った後、エマとゲームを楽しんだりピアノを聞いたりして、22時に寝室に入った。チャールズは父から年間400ポンド、結婚後は年間500ポンドを支給されたほか、1万ポンドの債権による利息を得ていた。エマも父親から同様の支給を得ていた。1848年に父親が亡くなって遺産を相続すると、株や債券への投資によって、50年代に年間5000ポンド、60年代に6000ポンド、70年代に8000ポンドの収入を得ていた(当時の1ポンドは現在の1万円ほど)。研究の記録と同様の熱意で収支の詳細を記帳していた。

航海中の南アメリカの化石やガラパゴス諸島の種の強い印象を受けて、1837年から「転成ノートブック」を始めた。1842年に学説の概要を35ページの「ペンシル・スケッチ」としてまとめ、44年にはそれを拡充した「エセー」を「種の起源」と同じ構成で執筆したが、公表はしなかった。1846年からは、航海中に発見した新種の蔓脚類を報告することをきっかけに8年間にわたって蔓脚類を研究し、飼育栽培化だけでなく自然界にも変異があふれていることに気づき、自然選択による枝分かれ的進化によって全体像が理解できることに確信を持つことになった。1853年には、地質学と蔓脚類の研究が評価されて、王立協会のロイヤル・メダルを受賞した。

1854年に蔓脚類の研究を終えて、進化研究を再開した。1855年、ウォレスがサラワクで執筆した論文「新種の導入を支配する法則について」で生物の進化を示唆すると、ライエルはダーウィンに対して進化理論の概要を発表するよう勧め、ダーウィンは1856年に「自然選択」と名付けた大著を書き始めた。ウォーレスは1858年に、種が変化する仕組みとして分岐を提案したテルテナ論文を執筆し、それに自分の学説と同じものを読み取ったダーウィンは、友人に送った学説要旨と「エセー」の抜粋とともにウォーレスの論文を学会に送った。学会の発表後、「自然選択」の抄録を執筆し始め、1859年に「種の起源」初版が刊行された。当初はこれを非難する論調が目立ったが、生物進化の考えは急速に広まり、10年後にはイギリスの科学界では常識となった。

1860年には、「自然選択」の最初の2章を基にして「飼育栽培のもとでの変異」の執筆に着手し、68年に刊行された。その後、「人間の由来、および性選択」が1871年に、「人間と動物の感情の表現」が72年に刊行された。1975年以降は、植物学の著書を出版し、植物の他家受精が一般的であることを証明した。1880年からはミミズの研究に没頭し、「ミミズの作用による土壌と形成」が81年に刊行された。

1876年には「我が心と性格の発達についての思い出」を執筆したが、公開はしなかった。1882年、心臓病の悪化により死去後、三男フランシス編集の「チャールズ・ダーウィンの生涯と書簡」が1887年に出版されたが、自伝からは知人たちへの批判などは削除された。完全な自伝は、1958年に孫娘によって出版された。ダウンの自宅はしばらくの間女学校の校舎として貸し出されていたが、1927年に買い上げられて以前の状態に戻され、ダーウィン博物館として公開されるようになった。

チャールズ・ダーウィンの生涯 進化論を生んだジェントルマンの社会チャールズ・ダーウィンの生涯 進化論を生んだジェントルマンの社会
松永 俊男 / 朝日新聞出版 (2009-08-07)
タグ:人物 生物学