2014年03月11日

「母と神童」奥田 昭則

第1章は節の青春時代、第8章は龍を取り上げるが、残りの2〜7章は五嶋みどりとその母親節の二人三脚の物語。世界的バイオリニスト五嶋みどりの誕生の背景には、母親節の才能と極端なまでの教育熱があったことがわかる。物心つく前からバイオリンを習い始め、バイオリン以外のことは母親が面倒みてきたという生い立ちや両親の離婚に、みどりが苦悩する姿も描かれている。

節は5歳の時に母親からバイオリンを渡された。戦後間もなくの時代で、音楽ならどんな社会になっても生きていけるだろうとの思いだった。高校2年の学生コンクール大阪大会高校の部で3位入賞となり、大学では3年のときにコンサートマスターになった。オーケストラの指導者と衝突したこともあって、家出をして東京交響楽団のオーディションを受けたが、家族に見つけられてバイオリンを取り上げられた。大阪に帰るとお見合いをさせられ、結婚して大学も退学した。

節はみどりをバイオリニストにするつもりは全くなかったが、みどりが生まれてからクラシック音楽はずっと聴かせた。節はみどりが3歳の時にピアノを教え始めたが、3か月でやめ、みどりは母親だけが持っていることを「ずるい」と言ってバイオリンを欲しがった。1975年の春に枚方に転居したのを機に、みどりはバイオリンを習い始めた。

みどりは弱視のため、外で遊ぶこともテレビを見ることもなく、バイオリンがおもちゃ代わりだった。節はみどりをバイオリンに集中させるために、みどりが小学生の時も食事を口に入れてやり、身のまわりのこともすべてした。みどりは15歳になるまで、一切荷物を持つことはなかった。

みどりは、節の恩師である東儀祐二主宰の発表会「いずみ会」で、4歳の時にダンクラのエア・ヴァリエ第6番、5歳のときにベリオのバイオリン協奏曲第9番第三楽章、6歳のときにベリオのファンタジー・バレエ、小学1年の7歳のときにはラロのバイオリン協奏曲第2番「スペイン交響曲」第5楽章、同じ年に日本弦楽指導者協会関西支部でパガニーニのカプリース第9番、9歳の時に銀座のヤマハ楽器でパガニーニのバイオリン協奏曲第1番第1楽章、小学5年の時にカプリース第17番、翌年の1982年4月に「大阪フィル推薦明日のホープたち」でパガニーニのバイオリン協奏曲第1番を全楽章を弾いた。

節は、みどりの腕前が上がるにつれて日本の音楽界の窮屈さを感じ始め、鷲見三郎や東儀祐二も海外留学を勧めた。みどりの演奏を認めたドロシー・ディレイに節も「ついていく」と思い、1982年2月に節とみどりは片道切符で日本を離れた。みどりはジュリアード音楽院のプレ・カレッジに入学しディレイに師事した。ディレイは節を信頼して、みどりには助手を付けずに節に教えさせた。

NYに暮らして3か月たった5月、ディレイの紹介でズービン・メータと会うことになり、NYフィルとのリハーサルの冒頭でパガニーニのバイオリン協奏曲第1番とバルトークのバイオリン協奏曲第2番の冒頭部分を演奏した。みどりの演奏に驚いたメータは、年末年始のニューイヤーズコンサートへの出演を要請し、コンサート終了後のサプライズゲストとしてパガニーニのバイオリン協奏曲第1番第1楽章を演奏した。この時、節はNYに来ていた夫と破局となり、みどりの心にも影響を与えるようになる。

1985年8月、広島の被爆40周年を記念したコンサートで、みどりはモーツァルトのバイオリン協奏曲第5番をひいた。このコンサートで指揮をしたバーンスタインは、翌年のタングルウッド音楽祭でみどりを起用し、伝説を生み、NYTの一面にも取り上げられることとなった。

1987年夏、音楽院校長秘書とのささいなトラブルが原因で音楽院をやめることになり、ディレイとも別れることになった。その頃、みどりは神経性の円形脱毛症になった。

後に節と再婚することになる金城摩承が迷い込んできた猫を与えると、みどりはえさ代のために空き缶拾いを始めた。節も倹約を教えるにはいい機会ととらえた。

1994年、みどりは22歳のときに精神的な不調により77日間入院した。名目は拒食症だった。美空ひばりとひばりの母と同じように、節とみどりも、その密着ぶりから一卵性母娘と言われた。この時、病院側はみどりに確認してバイオリンを弾く特別室や音楽のカセットテープを用意しようとしたが、節は「そんなはずはない」と否定した。退院後、みどりは節に「ママは、ちっちゃい時から3時間、4時間練習しなさいと言って、大きくなって『ほかの仕事を選んでもいい』と言っても、職業を変えるなんて考えられない。残酷な言い方だ。もう変えられない人間にしちゃったのに」とよく言った。精神療法家との会話によって、みどりは自分を客観的にみられるようになり、「こわいこわいと思っていたけれども、それは不合理だとわかってきた」

1991年にボランティア団体のJACCIに依頼されてチャリティー演奏会をしたことや、みどりのタングルウッド音楽祭での逸話を紹介した教科書で学んだアメリカの小学生から手紙が送られてくるようになったのを機に、子どもたちの前で引きたいと思い始めたことが、1992年にみどり教育財団の設立につながっていった。

母と神童―五嶋節物語母と神童―五嶋節物語
奥田 昭則 / 小学館 (1998-10)
2011年12月22日

「音楽は自由にする」坂本龍一

雑誌「エジソン」で2007年1月から2009年3月まで連載されたもの。連載という形式だったためか、生い立ちから近年の活動に至るまでバランス良く紹介されている。また、それぞれの時代に接した音楽や音楽家などの解説の注が充実しており、同時代の音楽史をたどることもできるのも嬉しい。

生い立ちについては、坂本龍一という人物が育つまでの経緯が伝わってくる。母親が選んで入った幼稚園で初めてピアノに触れたこと、小学校に入ってからピアノを習い始めたこと、メロディが左右の手に移動するバッハを好きになったこと、小学5年生の時に作曲を習うことをピアノの先生から執拗に勧められたこと、ビートルズを聴いて9thの和音に快感を覚えたこと、中学生になってから叔父のレコードコレクションの中から見つけたドビッシーを聴いて衝撃を受け夢中になったことなど、本人は特別に音楽が好きという意識はなかったようだが、こうした経験を通じて才能が磨かれてきたことがわかる。

高校に入ってからは、真っ先に新宿のジャズ喫茶を回る生活を始めた。高校1年のときに高校の先輩の作曲家に「今芸大を受けても受かる」と言われたという。高校時代を通して学生デモに参加して学校や社会の制度を解体する運動に身を投じていたことと、音楽の制度や構造を解体しようとしていた時代を重ね合わせて考えていたというから、この頃までには音楽史の大きな流れを理解していたことがうかがえる。

芸大ではお嬢さんやお坊ちゃんばかりの音楽学部には行かず、変わった人間が多い美術学部に入り浸るようになったこと、日比谷の野音で毎週のように無料のロックコンサートを聴きに行ったこと、武満徹を「右っぽい」として批判しに行ったにもかかわらず、直接話をして引き込まれたこと、民族音楽と電子音楽に関心を置き、小泉文夫の授業は欠かさず出席したことなどが語られている。大学3年のときに結婚して生活費を稼ぐために酒場でピアノを弾きはじめ、音楽でバイトをする生活が始まった。和製ボブ・ディランの友部正人と出会い、一緒にコンサートをやって日本を回ったこともあったという。

77年に大学院を卒業してからは、さまざまな人物と出会うことになる。吉田日出子が当時つき合っていた鈴木茂と出会うまでは、はっぴいえんどさえ知らなかったというのは意外だった。アメリカンポップスから音楽理論を吸収するという別の道を歩んできた山下達郎と、複雑なハーモニーのことを突っ込んで話すことができたという話や、細野晴臣や矢野顕子に対しても同じような驚きを感じたというエピソードはおもしろい。

YMO結成以降の活躍についてはおさらいのようなものだったが、テクノデリックの完成度に満足したことや、散開までに「花を咲かせて終わる」という思いを持っていたことなどが印象的。Behind The Maskをマイケル・ジャクソン(2010年のMICHAELに収録)やエリック・クラプトン(Augustに収録)がカバーしていたのは知らなかった。

また、坂本のそれぞれのソロアルバムのコンセプトが語られているのは嬉しい。2nd「B-2ユニット」はYMOを仮想的にして、数ヶ月間誰とも会わずに作った。それに対して細野と高橋が2人だけで作ったのが、BGMに収録されているキューという曲。4th「音楽図鑑」では、無意識に出てくるものを書きとめる形の音楽のつくり方を試した。5th「エスペラント」では、サンプラーを使って音楽の部品をばらばらにしてつなぎ合わせる実験をした。6th「未来派野郎」の未来派とは、20世紀初頭にミラノで始まった芸術運動。7th「NEO GEO」はバリ島や沖縄の音楽を取り入れた。8th「BEAUTY」も、いろいろな国の文化をミクスチャーする傾向を引き継いでいる。9th「HEARTBEAT」は胎児が聞く母親の心音をイメージしたものだが、湾岸戦争に対する怒りに満ちている。10th「SWEET REVENGE」、11th「Smoochy」はポップを意識して作ったものだが評判は良くなかった。12th「DISCORD」は、その反動でオーケストラ作品を作った。不協和音という意味だけでなく、社会的な衝突や軋轢の意味が含まれている。13th「BTTB」は、原点のピアノ音楽を中心にした。

私としては、最初のソロアルバム「千のナイフ」がつくられた経緯をもう少し知りたかった。

音楽は自由にする音楽は自由にする
坂本龍一 / 新潮社 (2009/02)
タグ:音楽 人物
2011年10月16日

「西洋音楽史」岡田 暁生

中世から現代にいたるまでの西洋の音楽史。バッハ以前の西洋音楽のルーツがまとめられているほか、社会の需要や思想の変化に対する音楽の変遷、地域による特徴の違い、現代の音楽へとつながる歴史などがわかりやすく説明されている。

中世の宗教音楽から始まった西洋音楽は、協和音が重視された声楽と器楽曲のルネサンス、絶対王政時代の宮廷音楽とオペラのバロック、市民社会の勃興と啓蒙主義を背景にした古典主義音楽、自由市場で目立つことが求められたロマン派音楽、快適で洗練された音を愛した印象派と変遷し、第一次世界大戦とともに、シェーンベルクによる調性の解体やストラヴィンスキーによるリズム法則の破壊によって、音楽史は瓦解していった。戦後の音楽については、前衛音楽、巨匠の名演、ポピュラー音楽の3つの流れに分かれているとまとめている。

バロックの巨匠と考えられているバッハがむしろ例外であることや、未来に遺産を残すことを重視して交響曲などがつくられ、無言歌、標題音楽、絶対音楽への展開も見られたドイツに対して、目の前の需要を満たすグランドオペラやサロン音楽、キッチュが好まれたフランスやイタリアの違いがあったという説明もわかりやすい。

各時代の音楽の特徴などがコンパクトながら十分に理解できる。それでいて、歴史全体の流れがきちんとつながるように解説されているのは見事。読了後は大きな満足感に浸ることができた。

あとがきの通史を書くことに関するエピソードもおもしろい。

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)
岡田 暁生 / 中央公論新社 (2005/10)
タグ:音楽