2017年05月26日

『オリエント世界はなぜ崩壊したか』宮田律 新潮選書

中東・イスラム地域の通史だが、特にオスマン帝国の末期以降は詳しく書かれている。

ゾロアスター教は、紀元前1000年頃、イラン高原東北部(あるいはカザフスタン)で生まれた。最初に天と水が、そして世界は水の上に創造された。創造主であり全能の神アフラ・マズダーと、それと対立する破壊霊アンラ・マンユが存在する善悪二元論。善悪の判断は各自に委ねられるが、最終的には神によって裁かれる。背景にはメソポタミアの混乱があったと考えられ、多彩な民族、宗教が衝突する争いを、善行という最低限の価値観のみを掲げることによって安定に導くことに気づいたのだろう。これが、その後のアケメネス朝の寛容の精神を生み出した。

善悪二元論と寛容の倫理は、ほぼ原形をとどめたままイスラムに継承されている。イスラムが拡大していく過程でアラブ・イスラム軍が求めたのは、イスラムに改宗するか、改宗せずに税を払うか、イスラムと戦うかという選択だったが、信仰を拡大したのは、キリスト教世界にあった階級的な価値観を否定し、神の前の平等を唱えたことが大きい。

16世紀にポルトガルがインドへの航路を開拓した後も、オスマン帝国とインドやスマトラ島との通商関係は維持され、イエメン産のコーヒーがヨーロッパで人気が高まると交易は盛り返した。しかし、イギリスとオランダがインドと東インドに植民地をつくって香料貿易に直接参入すると、オスマン帝国の輸入は国内消費のみを対象とするようになり、ヨーロッパの国々は1625年に陸路で輸送する香料貿易を断った。

ヨーロッパの産業革命によって、地理的に近いオリエントはさらなる原料と新たな市場を求められた。エジプトとシリアからは綿が、アナトリアとイランからはタバコ、レバノンからは絹がヨーロッパに送り込まれ、ヨーロッパで加工された商品はオリエントに輸出された。1825〜52年の間にイギリスからオスマン帝国への輸出額は8倍になり、オスマン帝国からイギリスへの輸出額の4倍になった。オリエントの貿易収支は悪化し、伝統的産業も壊滅していった。オスマン帝国は、ヨーロッパと肩を並べて経済を回復するために、軍隊や官僚機構の近代化を図り、鉄道、港湾、道路などを建設し、灌漑施設も整備したが、すでに400年続いていた統治機構は疲弊・腐敗していたため、投資はそのまま負債となり、1875年に元利償還不能に陥って財政破綻した。債権国は、1881年に帝国の債務管理局をつくって各種の税を直接徴収するようになり、国家の主権は奪われた。

黒海から地中海に抜けるボスポラス海峡の支配を悲願とするロシアは、19世紀に入るとキリスト教徒の保護という大義でオスマン帝国のバルカン地域に進出した。ロシアは、1812年にバッサラビアを併合し、モルダビアやワラキア、セルビアを保護下において自立させ、1832年にはギリシアも独立させた。オスマン帝国の親交国であったフランスが普仏戦争で敗れると、ロシアの工作によってバルカン半島各地で暴動が発生し、1878年にセルビア、モンテネグロ、ルーマニアが独立し、ブルガリアも事実上ロシアの支配下となった。

1908年、青年トルコ党が挙兵してスルタンを退位させ、立憲君主制の軍事政権を立ち上げた。この混乱を衝いてイタリアがトリポリやキレナイカ(リビア)を占領し、セルビア、モンテネグロ、ブルガリア、ギリシアが宣戦布告した。青年トルコ党は、国家の近代化を求めて軍事面ではドイツに頼り、この関係が第一次世界大戦へとつながっていった。オスマン帝国はドイツと同盟して戦い敗れたが、最後まで連合軍に食い下がって苦しめた。イギリスは、トルコ民族主義を苦々しく思うメッカのアミール(総督)であったフサイン・イブン・アリーと密約(フサイン=マクマホン協定)を交わし、1916年にオスマン帝国に対して反乱を起こさせた。同時に、イギリスとフランス、ロシアはオスマン帝国を分割する秘密条約(サイクス=ピコ協定)を交わし、イギリスはパレスチナとヨルダン、イラク南部を、フランスはイラク北部、シリア、レバノンを獲得した。ロシアはトルコ東部、イスタンブールとボスポラス海峡、ダーダネルス海峡を支配することになっていたが、翌年の革命により実現しなかった。イギリスは、アメリカとロシアのユダヤ人世論の支持を得るために、1917年にバルフォア宣言を出して、パレスチナのユダヤ人民族郷土を建設する約束をした。

第二次世界大戦の莫大な戦費によって財政難に直面し、次々に植民地を放棄していったイギリスに代わって、アメリカはソ連などの社会主義陣営に対抗するため、オリエントに自由と民主主義をもたらすという理念を掲げて介入していった。トルーマン大統領は、共産主義の脅威を強調して、ギリシア、トルコに対する経済・軍事援助を求めるトルーマン・ドクトリンを表明し、19世紀の孤立主義から転換した。

イランは1953年の王政以降、アメリカの信頼を得て軍事予算を増額し、アメリカの武器の最大の輸出先となった。ケネディ政権の圧力を受けて、1960年代に婦人参政権の導入や農地改革などの非イスラム的な改革を断行し、これを非難する聖職者を弾圧した。1970年代には、原油価格の乱高下によって経済が翻弄されたため、増税やインフレによって社会の不満が膨れ上がり、1979年のホメイニによる革命が起きた。

1980年、イラクはアラブ系住民の多いフゼスタンの石油獲得を目指してイランに侵攻した。レーガン政権は、イラクのフセイン政権と友好関係を結んだ。イランは、王政時代に大量に購入したアメリカ製の武器に使用できる弾薬やスペアパーツを入手するために、イスラエルとの石油取引に応じた。1982年には、パレスチナ難民の流入によって混乱していたレバノン南部にイスラエルが侵攻し、シーア派武装集団によるゲリラ活動を引き起こして、事態は泥沼化した。中米のニカラグアでは、1979年にサンディニスタ左翼政権による革命が起きていた。レーガン政権はイラクの支援をしながらも、国会の承認なしにイランにも武器を売却し、その代金をニカラグアの極右武装集団コントラに与えていた(イラン・コントラ事件)。一方、アフガニスタンに共産党政権が成立し、イスラム教徒のムジャヒディンが反乱を起こすと、ソ連は1979年に軍事介入した。レーガン政権は、ムジャヒディンに対して軍事援助と軍事訓練を行ったが、その中にオサマ・ビンラディンがいた。サダム・フセインもオサマ・ビンラディンもアメリカが生み育てた。

イラク戦争後にアメリカが作り上げたシーア派主体の政府は権威主義的方策をとったため、スンニ派の人々がイスラム国を支持する背景になった。

タイトルの問いに答えるならば、オスマン帝国は、近世のヨーロッパの海路開拓によって衰退し、近代の産業革命によって食い物にされ、それでも第一次世界大戦では最後まで食い下がって苦しめたために、イギリスとフランスによって分割されてしまった。戦後は、ソ連の共産主義への対抗政策をとったアメリカによって、イラン、イラク、アフガニスタンが次々に軍事的介入を受け、過激派を育てて戦場になってしまった。ゾロアスター教やイスラム教が育んだ寛容の精神が、西洋によって無残にも壊されてしまったことを嘆かずにいられない。

オリエント世界はなぜ崩壊したか: 異形化する「イスラム」と忘れられた「共存」の叡智オリエント世界はなぜ崩壊したか: 異形化する「イスラム」と忘れられた「共存」の叡智
宮田 律 / 新潮社 (2016-06-24)
タグ:世界史
2016年10月22日

『日本文明と近代西洋』川勝平太 NHKブックス

幕末の開国当時、国際的に取引されていた主要商品は、すべて国内で自給できていたことが、自由貿易でも日本がアジア中枢部との競争に勝つことができたという内容。銀の流出を止めるために商品の国産化を推進して成功し、鎖国をしていたにも関わらず国内の経済は活性だったことがわかる。

中世末から近世初期にかけて、日本とヨーロッパは多くの物産を、それ以前からアラビアから中国まで広がっていたアジア貿易圏から輸入した。ヨーロッパが提供できたのは、武器とラテン・アメリカから掠奪した金銀しかなく、日本も戦国時代に進んだ鉱山開発によって保有していた金銀銅を輸出した。

ヨーロッパ人が東インドに到着する以前、インド洋圏ではインド人、インドネシア人が主体となって、香料諸島の胡椒・香辛料、ヨーロッパの銀、インドの木綿を交換する三角貿易が行われていた。ポルトガル人はこの中継貿易を武力で奪い取り、西方の拠点だった中東→ヴェニスをリスボン→アントワープに移した。17世紀に貿易の覇権はオランダとイギリスに移ったが、香料諸島の利権をオランダに奪われたイギリスはインドに退いたことから、インド木綿がヨーロッパに輸出されるようになった。1660年代後半から約百年間、アジアからの輸入の3分の2をインド木綿を中心とする織物が占めるようになった。インド綿布は、イギリス国内の羊毛・絹工業を危機に陥れたが、1700年にキャラコ輸入禁止法が発布されると、イギリスの綿工業は西インド諸島のプランテーションから供給された原綿によって発展した。

鎌倉期に一度途絶えた日本への綿の伝来は15世紀末から16世紀初頭に再伝来し、綿作は日本一円に広がった。国産綿布は厚手のものだったため、冬季の生活に取り入れられた。綿作は17世紀末から18世紀初期に多肥・労働集約型農法の典型として畿内に集中した後、近世後半には瀬戸内地域が台頭して江戸経済の最高段階をもたらした。

開国後の西洋列強の販売品目の中心は木綿と砂糖で、日本からの購入品は生糸と茶だった。輸入の中心はイギリス製品だった。イギリスは、アメリカのプランテーションで栽培した綿花をイギリスで製品に仕上げて世界に販売していた。茶は19世紀半ばまでは中国、それ以降はインドとセイロンのプランテーションで栽培されていた。生糸は、フランスやイタリア、アメリカの絹織物業の原料として中国から輸入されていた。これらは、日本が近代世界システムに参入する前から国際商品として取引されていたものだったが、いずれも19世紀初めまでに国産化による輸入代替化が完成していた。日本は保護関税をもうける権利を奪われており、イギリスとは自由貿易で相対したことは、商品の価格差がものをいう競争条件が整っていたことを意味する。

木綿は日本では冬にも着用されたが、ヨーロッパでは夏用で、冬には毛織物を用いた。幕末に輸入された木綿は薄地のため、日本の木綿の代用にはならず、価格競争していなかった。19世紀半ばにいち早く紡績機械を導入して太糸の生産力が上昇したインドからの輸入は、1890年以降に急増して在来の手紡績業が打撃を被ったが、明治30年前後に日本の紡績業が機械化すると、インドに比べて労働力の質が高い日本がその競争に勝った。この結果、かつて中国・朝鮮から日本への木綿の流れは、日本から中国・インドへと逆転した。

サトウキビは、インドより中国、台湾、琉球、日本へと伝播した。1624年にオランダが台湾を領有してからサトウキビ生産を奨励し、鄭成功が占拠後はさらに増産されて、主に日本に輸出された。17世紀の日本の砂糖輸入量はイギリスよりも多かった。吉宗の時代にサトウキビの国産化が奨励され、讃岐・阿波・薩摩をはじめとして各地に砂糖生産が発展し、1830年代には国内糖で自給の域に達した。開国後はインドネシア原産の砂糖が中国や台湾から流入して自給率は2割に減少したが、日清戦争の勝利によって台湾を占有すると、サトウキビの品種改良を行い、収穫高は30年で16倍になり、世界各地に輸出されるようになった。

イギリスと日本は生産革命によってアジア中枢部への貴金属の流出の危機から脱却し、最初の工業国となった。

日本文明と近代西洋―「鎖国」再考日本文明と近代西洋―「鎖国」再考
川勝 平太 / 日本放送出版協会 (1991-06)
2016年05月26日

「日本史の謎は「地形」で解ける【文明・文化篇】」竹村公太郎 PHP文庫

著者は建設省で主にダム・河川事業を担当した方。インフラが地形や気象に立脚し、文明を支えているという視点で論じているのが面白い。

後藤新平は岩手県水沢市に生まれ、自費でドイツに留学してコッホ研究所で博士号を取得した。台湾総督府民政長官、満鉄初代総裁、逓信大臣、内務大臣、外務大臣を務めた後、東京市長に就任し、シベリア出兵時に毒ガスとして開発された液体塩素を転用して、大正10年に水道水の塩素殺菌を始めた。これを機に、国内の乳児死亡率が劇的に減少し、平均寿命が改善することになった。後藤は大正12年に関東大震災後に帝都復興院総裁となり、東京復興計画を立案して政府に提出した。

銚子沖では黒潮と親潮がぶつかって太平洋に向かう潮流があるため、房総半島の西岸には関西からの船が上陸する港が連なっていた。家康が利根川を東遷したのは、鬼怒川と利根川の間の関宿を塞ぎ、仮想的だった伊達政宗から上総を守るためだったと考えられる。利根川の流れを銚子に変更した後も拡張工事が続けられたのは、洪水防止と乾田化だった。

1597年に家康が小泉次大夫に多摩川両岸の用水路の建設を命じて作られたのが、二ヶ領用水と六郷用水(次大夫堀、1945年廃止)。

幕末の開港後に東海・南海地震、安政江戸地震とその余震が続いたこと、山がちの地形が欧米の植民地になることからまぬかれた。石狩川の流路を直線化して川底を洗堀させることによって、石狩平野の泥炭層の水を抜き、農地に転換することができた。日本には馬車や牛車がなく、荷物を自分で背負わなければならなかったため、物を小型化することが得意になった。

エジプトのピラミッドはナイル川の西岸だけにあり、山岳地帯が連続している東岸にはない。西岸に広がるリビア砂漠に水が流れ消えることを防ぐため、洪水の流速を低下させて運ばれてきた土砂を沈降させるための「からみ」だった(からみは筑後川河口の有明海の干拓でも用いられた)。ギザの3大ピラミッドは、当時のナイルデルタ河口の台地に位置しており、正四角錘で表面には大理石が張られていたことから、灯台としての役割を果たしていた。

日本史の謎は「地形」で解ける【文明・文化篇】日本史の謎は「地形」で解ける【文明・文化篇】
竹村 公太郎 / PHP研究所 (2014-02-05)
タグ:日本史 国土