2017年06月25日

『国家はなぜ衰退するのか』ダロン・アセモグル, ジェイムズ・A.ロビンソン

世界に裕福な国と貧しい国が生まれた理由を歴史的に解き明かす。緯度や気候などの地理的条件、宗教や民族ごとの価値観などの文化的側面は、世界的な不平等の説明にはならず、経済と政治の制度が重要であると説く。

ヨーロッパの植民地としての歴史を持つ南北アメリカ大陸に相違が生まれた理由がおもしろい。スペインが支配するアメリカ大陸の植民地では、金銀の略奪段階が過ぎると、労働力としての先住民を分け与える制度であるエンコミエンダなどの制度を導入し、土地を奪い、労働を強制し、低い賃金と重税、高い商品を売りつけた。コンキスタドールとその子孫は大金持ちになり、先住民の生活水準は最低となる不平等な社会となった。スペインは、1808年にナポレオンが率いるフランス軍に侵攻され、王が退位させられると、評議会が結成されてコルテスと呼ばれる議会を組織してカディス憲法を生み出したが、南米のエリートは、労働力としての先住民を分け与える制度であるエンコミエンダ、強制労働、絶対的権力による制度を守り、独立していった。

イングランドはアメリカ大陸の征服に遅れたため、先住民がたくさんいて鉱山のある場所はすでに占領されており、北米しか残っていなかった。入植者たちは先住民を支配することができなかったため、入植の支援をしたヴァージニア会社は人頭権制度を導入して土地と家を与え、1619年には議会が設立されて法と制度の決定権が与えられた。メリーランドでは荘園社会がつくられたが、議会が創設されると荘園領主の特権は剥奪された。1720年までに、アメリカ合衆国となる13の植民地のすべてに知事がいて、選挙に基づく議会があった。

ヨーロッパでは、14世紀のペスト流行による人口減少が、地域ごとに異なる結果を生んだ。イングランドでは労働力不足の結果、農民は強制労働と多くの義務から解放された。しかし、封建君主が組織化されていた東欧では、もともと広かった小作地はさらに拡大され、労働者の自由は奪われた。1500年以降は、西欧が東欧の農産物を輸入し始めたため、地主による労働者の支配は強くなり、無給労働が増えた(再版農奴制)。

政治制度の違いも重要な影響を与えた。16世紀末のイングランド、フランス、スペインは、いずれも絶対君主に支配されていたが、イングランドとスペインの議会は課税権を手に入れていた。スペイン国王はアメリカ大陸からの金銀から膨大な利益を得ていたが、イングランドの女王は税金を上げる見返りに、独占企業を創設する権利が奪われていった。イングランドでは、大西洋貿易と植民地化によって、国王とつながりのない裕福な商人が大勢現れ、政治制度の変化と国王の特権の制限を要求して、名誉革命において決定的な役割を演じた。名誉革命によって、所有権が強化・正当化され、金融市場が改善され、海外貿易における国家承認専売制度が弱められ、産業拡大の障壁が取り除かれた。包括的経済制度の下で、ジェームズ・ワットをはじめとする人々が機会とインセンティブを与えられて、産業革命が始まった。

多数の資源を少数が搾り取る収奪的制度では、所有権が保護されず、経済活動のインセンティブも与えられない。少数は、自らの利益のために収奪的制度を維持し、手に入れた資源を利用して政治権力を強固にする。収奪的制度の下でも、政治的中央集権化化によって、ある程度の成長が可能だが、創造的破壊によるイノベーションが起こらないため、成長には限界がある。また、政治権力をめぐって闘いが発生するため、社会は不安定になる。

包括的政治制度では、政治権力が幅広く配分され、法と秩序、所有権の基盤、包括的市場経済が確立される。有史以来、収奪的制度がごく普通だったが、14世紀のペスト流行、大西洋貿易航路の開通、産業革命といった歴史的な決定的岐路において、既存の制度との相互作用によって包括的制度が生まれた。

今後、収奪的制度下でも政治的中央主権下で成長しそうな国は、アフリカではブルンジ、エチオピア、ルワンダ、タンザニア、ラテンアメリカでは、ブラジル、チリ、メキシコなど。中国は、持続的成長をもたらさないため、いずれ活力を失うと予測する。

国家はなぜ衰退するのか(上):権力・繁栄・貧困の起源国家はなぜ衰退するのか(上):権力・繁栄・貧困の起源
ダロン アセモグル, ジェイムズ A ロビンソン / 早川書房 (2013-06-21)


国家はなぜ衰退するのか(下):権力・繁栄・貧困の起源国家はなぜ衰退するのか(下):権力・繁栄・貧困の起源
ダロン アセモグル, ジェイムズ A ロビンソン / 早川書房 (2013-06-24)

タグ:世界史 経済
2017年06月05日

『寄生虫なき病』モイセズ・ベラスケス=マノフ

アレルギーは衛生状態が改善したことによる副作用のようなものと言われているが、寄生虫や細菌の刺激を受けなくなったために免疫系が正常に機能できなくなったものであると説明する。

2000年代の初め、白血球の一種で腸内の共生細菌との平和を維持するレギュラトリーT細胞が存在することが確認された。アレルギーは、免疫反応が誤作動することではなく、免疫を制御する抑制細胞の欠如によって起こる。アレルギーを引き起こすタンパク質は主に寄生虫を構成しているものだが、寄生虫に対しては作動する抑制回路を作動させることができないため、過剰反応が起こる。

抑制細胞は寄生虫や微生物に接触することによって初めて出現する。花粉症や食物アレルギーの症状、ハチに刺された後のアナフィラキシーショックを引き起こしているのは免疫グロブリンE(IgE)抗体で、その濃度は都市ではアレルギーの指標となるが、寄生虫感染が蔓延している地域では数百倍高い。年上の兄弟、保育所、ペットの飼育、糞口感染する病原体にはアレルギー予防効果があり、これらに付随する大量の微生物によるものと考えられる。草食動物の腸内細菌は、肉食動物に比べて多様性が高く、農家の人は家畜と日常的に接触することによって、バランスのとれた腸内細菌叢を獲得することができるのだろう。

フィンランドはアレルギーや喘息に悩まされている割合が高いが、遺伝的に近縁関係にあり、地理的に隣接しているロシア領カレリアでは著しく低い。ロシア側の飲料水には、土壌由来の多様で大量の微生物が含まれていることが、アレルギーリスクを減少させている。

抗生物質は病原菌だけでなく有用微生物も消滅させてしまう。乳幼児に抗生物質を投与した量が多いほど、喘息を発症するリスクが高くなる。人間にとっての病原菌は50〜100種類に過ぎないが、共生する細菌は千種類もある。野外で育てたブタでは腸内細菌の4分の3を乳酸菌が占めるが、屋内で育てると13%に減り、抗生物質を与えながら育てると3.6%になってしまう。

寄生虫を駆除すると心臓疾患が増えることが世界的に明らかになっている。免疫制御能力が弱いと肥満になりやすく、成人病になるリスクが高くなる。感染症にかかりやすいグループの方が、中年以降の平均余命が長い。がんも、環境が清潔であるほど発生率が高くなる。免疫系の監視機能がうまく働かなくなった結果、がん細胞が成長してしまうと考えられる。うつ病の治療として効果のある運動は、セロトニンの分泌を増やすとともに、抗炎症性の免疫反応を引き起こす。

ピーナッツオイルが含まれているベビークリームを使うと、ピーナッツアレルギーのリスクが上昇する。経口摂取する前に皮膚がタンパク質に接すると、免疫系がそれを撃退する反応を起こしてしまうのだろう。

哺乳類の母親は、病原体と戦う力を保ちつつ、胎児は排除しないという微妙なバランスを維持しなければならず、免疫系の強さには上限がある。強い免疫系を持つ個体は、繁殖に成功しにくくなる。一方、テストステロンは免疫系を抑制するため、群れの中で優位なオスは多くの寄生虫に悩まされながらライバルを打ち負かす能力を持っていることを示している。

アレルギーとは、人類が長年にわたって寄生虫や細菌と戦い、共生してきたバランスが崩れてしまった結果であるとすれば、大きな問題であることがわかる。とは言え、衛生状態を改善したことが死亡率を下げ、寿命を伸ばし、憂慮するほどまでに人口を増加させたのも事実。アレルギー予防のために本書が提案している乳幼児の時期に動物と接するというのも、覚悟がいるだろう。アレルギーに苦しむ著者が寄生虫を再導入した体験も衝撃的だ。この本で学んだことを活かすこととしては、植物食を多くとって腸内細菌を増やしたり、自然環境に身を置く機会を増やすことによって、免疫機能を高めるといったところだろうか。

寄生虫なき病寄生虫なき病
モイセズ ベラスケス=マノフ / 文藝春秋 (2014-03-17)
タグ:健康 生物学
2017年05月26日

『オリエント世界はなぜ崩壊したか』宮田律 新潮選書

中東・イスラム地域の通史だが、特にオスマン帝国の末期以降は詳しく書かれている。

ゾロアスター教は、紀元前1000年頃、イラン高原東北部(あるいはカザフスタン)で生まれた。最初に天と水が、そして世界は水の上に創造された。創造主であり全能の神アフラ・マズダーと、それと対立する破壊霊アンラ・マンユが存在する善悪二元論。善悪の判断は各自に委ねられるが、最終的には神によって裁かれる。背景にはメソポタミアの混乱があったと考えられ、多彩な民族、宗教が衝突する争いを、善行という最低限の価値観のみを掲げることによって安定に導くことに気づいたのだろう。これが、その後のアケメネス朝の寛容の精神を生み出した。

善悪二元論と寛容の倫理は、ほぼ原形をとどめたままイスラムに継承されている。イスラムが拡大していく過程でアラブ・イスラム軍が求めたのは、イスラムに改宗するか、改宗せずに税を払うか、イスラムと戦うかという選択だったが、信仰を拡大したのは、キリスト教世界にあった階級的な価値観を否定し、神の前の平等を唱えたことが大きい。

16世紀にポルトガルがインドへの航路を開拓した後も、オスマン帝国とインドやスマトラ島との通商関係は維持され、イエメン産のコーヒーがヨーロッパで人気が高まると交易は盛り返した。しかし、イギリスとオランダがインドと東インドに植民地をつくって香料貿易に直接参入すると、オスマン帝国の輸入は国内消費のみを対象とするようになり、ヨーロッパの国々は1625年に陸路で輸送する香料貿易を断った。

ヨーロッパの産業革命によって、地理的に近いオリエントはさらなる原料と新たな市場を求められた。エジプトとシリアからは綿が、アナトリアとイランからはタバコ、レバノンからは絹がヨーロッパに送り込まれ、ヨーロッパで加工された商品はオリエントに輸出された。1825〜52年の間にイギリスからオスマン帝国への輸出額は8倍になり、オスマン帝国からイギリスへの輸出額の4倍になった。オリエントの貿易収支は悪化し、伝統的産業も壊滅していった。オスマン帝国は、ヨーロッパと肩を並べて経済を回復するために、軍隊や官僚機構の近代化を図り、鉄道、港湾、道路などを建設し、灌漑施設も整備したが、すでに400年続いていた統治機構は疲弊・腐敗していたため、投資はそのまま負債となり、1875年に元利償還不能に陥って財政破綻した。債権国は、1881年に帝国の債務管理局をつくって各種の税を直接徴収するようになり、国家の主権は奪われた。

黒海から地中海に抜けるボスポラス海峡の支配を悲願とするロシアは、19世紀に入るとキリスト教徒の保護という大義でオスマン帝国のバルカン地域に進出した。ロシアは、1812年にバッサラビアを併合し、モルダビアやワラキア、セルビアを保護下において自立させ、1832年にはギリシアも独立させた。オスマン帝国の親交国であったフランスが普仏戦争で敗れると、ロシアの工作によってバルカン半島各地で暴動が発生し、1878年にセルビア、モンテネグロ、ルーマニアが独立し、ブルガリアも事実上ロシアの支配下となった。

1908年、青年トルコ党が挙兵してスルタンを退位させ、立憲君主制の軍事政権を立ち上げた。この混乱を衝いてイタリアがトリポリやキレナイカ(リビア)を占領し、セルビア、モンテネグロ、ブルガリア、ギリシアが宣戦布告した。青年トルコ党は、国家の近代化を求めて軍事面ではドイツに頼り、この関係が第一次世界大戦へとつながっていった。オスマン帝国はドイツと同盟して戦い敗れたが、最後まで連合軍に食い下がって苦しめた。イギリスは、トルコ民族主義を苦々しく思うメッカのアミール(総督)であったフサイン・イブン・アリーと密約(フサイン=マクマホン協定)を交わし、1916年にオスマン帝国に対して反乱を起こさせた。同時に、イギリスとフランス、ロシアはオスマン帝国を分割する秘密条約(サイクス=ピコ協定)を交わし、イギリスはパレスチナとヨルダン、イラク南部を、フランスはイラク北部、シリア、レバノンを獲得した。ロシアはトルコ東部、イスタンブールとボスポラス海峡、ダーダネルス海峡を支配することになっていたが、翌年の革命により実現しなかった。イギリスは、アメリカとロシアのユダヤ人世論の支持を得るために、1917年にバルフォア宣言を出して、パレスチナのユダヤ人民族郷土を建設する約束をした。

第二次世界大戦の莫大な戦費によって財政難に直面し、次々に植民地を放棄していったイギリスに代わって、アメリカはソ連などの社会主義陣営に対抗するため、オリエントに自由と民主主義をもたらすという理念を掲げて介入していった。トルーマン大統領は、共産主義の脅威を強調して、ギリシア、トルコに対する経済・軍事援助を求めるトルーマン・ドクトリンを表明し、19世紀の孤立主義から転換した。

イランは1953年の王政以降、アメリカの信頼を得て軍事予算を増額し、アメリカの武器の最大の輸出先となった。ケネディ政権の圧力を受けて、1960年代に婦人参政権の導入や農地改革などの非イスラム的な改革を断行し、これを非難する聖職者を弾圧した。1970年代には、原油価格の乱高下によって経済が翻弄されたため、増税やインフレによって社会の不満が膨れ上がり、1979年のホメイニによる革命が起きた。

1980年、イラクはアラブ系住民の多いフゼスタンの石油獲得を目指してイランに侵攻した。レーガン政権は、イラクのフセイン政権と友好関係を結んだ。イランは、王政時代に大量に購入したアメリカ製の武器に使用できる弾薬やスペアパーツを入手するために、イスラエルとの石油取引に応じた。1982年には、パレスチナ難民の流入によって混乱していたレバノン南部にイスラエルが侵攻し、シーア派武装集団によるゲリラ活動を引き起こして、事態は泥沼化した。中米のニカラグアでは、1979年にサンディニスタ左翼政権による革命が起きていた。レーガン政権はイラクの支援をしながらも、国会の承認なしにイランにも武器を売却し、その代金をニカラグアの極右武装集団コントラに与えていた(イラン・コントラ事件)。一方、アフガニスタンに共産党政権が成立し、イスラム教徒のムジャヒディンが反乱を起こすと、ソ連は1979年に軍事介入した。レーガン政権は、ムジャヒディンに対して軍事援助と軍事訓練を行ったが、その中にオサマ・ビンラディンがいた。サダム・フセインもオサマ・ビンラディンもアメリカが生み育てた。

イラク戦争後にアメリカが作り上げたシーア派主体の政府は権威主義的方策をとったため、スンニ派の人々がイスラム国を支持する背景になった。

タイトルの問いに答えるならば、オスマン帝国は、近世のヨーロッパの海路開拓によって衰退し、近代の産業革命によって食い物にされ、それでも第一次世界大戦では最後まで食い下がって苦しめたために、イギリスとフランスによって分割されてしまった。戦後は、ソ連の共産主義への対抗政策をとったアメリカによって、イラン、イラク、アフガニスタンが次々に軍事的介入を受け、過激派を育てて戦場になってしまった。ゾロアスター教やイスラム教が育んだ寛容の精神が、西洋によって無残にも壊されてしまったことを嘆かずにいられない。

オリエント世界はなぜ崩壊したか: 異形化する「イスラム」と忘れられた「共存」の叡智オリエント世界はなぜ崩壊したか: 異形化する「イスラム」と忘れられた「共存」の叡智
宮田 律 / 新潮社 (2016-06-24)
タグ:世界史